映像社会学新論

 

「社会学的な映像制作」をめざす一連の思考

 

映像社会学と身体性

 

『お手を触れないでください〜現代社会と触ること』

             (岡原正幸著 アートセンターブックレット19号所収から抜粋)

5 映像社会学〜見る存在から身体的な存在へ

ここまで、どちらかといえば「感覚/感情の社会学」という立ち位置から語ってきた。さいごに、「社会学の感覚/感情」について考えてみたい。視覚や触覚について社会学するだけではなく、そこに含意されたアイデアを社会学自体に突き返す試みが必要だからである。というのは、社会学という営みそれ自体もこの現代社会の特性を免れているはずはないからである。

身体的なものを排除した知の構成に対する懐疑は今や広範な場面で見受けられる。身体論の隆盛、肉体の復権、臨床知の提唱といった時代を過ぎ、たとえば塾内では日吉教養研究センターが「身体知教育を通して行う教養言語力育成」というプログラムを展開したり、私を含めた数人の教員他による「三田の家」プロジェクトなども身体知教育との関連で行われている注11)。

さて、理論(テオリア)が観想であるなどと引き合いに出すまでもなく、見ることに局限された知の一つとして学問/社会学があった。ここでは典型的に「見る」を意識しなくてはならない「映像社会学」を取りあげて、解説しよう。私自身の専攻分野のひとつだが、感情社会学以上に新参者なので、まずはこの映像社会学の輪郭を定めておこう。

英国社会学会の映像社会学研究部門のホームページでは、映像社会学の定義としてウィキペディア掲載のテキストを採用している。それによれば映像社会学の三つのアプローチとして、①映像記録機器を用いたデータの収集、②映像文化の研究、③言語より映像を用いたコミュニケーション、が挙げられている。同じことは、映像人類学に関する港千尋の分類(①記録や資料収集の道具としての映像利用、②映像の人類学、③映像を表現手段とする人類学、研究成果としての映像作品)、あるいは映像社会学に関する亘と田邊の議論(①研究方法としての映像、②研究対象としての映像、③実践としての映像)にも共通するものである注12)

観察や聞き取りなどのフィールドワークを映像機器で記録したり、映像作品や映像鑑賞などの映像文化を社会学的に研究する、あるいは映像作品として社会学的実践を提示する、これらが映像社会学の試みと考えられている。このなかで、映像文化の社会学は、個々の作品についてだったり、映像というものにかかわる社会制度や行為を対象にする社会学であり、ある意味、視覚の社会学(たとえば視覚の優先と近代化というテーマ)もここに含まれるかもしれない。それに対して、ここで取りあげるのは、石田の表現を借りれば注13)、 「記録としての映像」(映像によって資料を記録し、その資料から社会学的な考えを組み立てていくという方法)、「映像を表現手段とする社会学」(論文のみを研究成果とするのではなく、映像作品を成果と考えて、研究実践として映像制作を行う社会学)、この二つである。

この二つの試みを、見るということと触るということ(身体的なもの)との関連で見直すことで、本稿のまとめにしたいと思う。

映像社会学、見るからに聞くからに「視覚的」な気がする。視覚優先の現代社会に適った社会学だと結論づけることもできるはずだ。だが、それは違うのだ。むしろそれは身体的なのであって、だからこそ、視覚優先社会へのオルタナティブとして、新たな試みとして評価されていると考えられる。映像社会学は視覚的というより身体的なのである。説明しよう。

まずは、①記録する行為がより身体的なものになるということ。社会学の研究にとって他者を他者の生活を調べるというのは基本中の基本であり、それを記録するのも当たり前の行為である。しかし、観察したり記録したりする社会学者自身がどこに位置するかといえば、限りなくゼロへと向かってきた。不可視の存在であることが「客観性」を保証するものとして要求されていた。このような透明な視点を、特権的な立ち位置にして映像を撮ることがないわけではない。とくに、80年代以前の映像人類学の撮影視点はそうだったかもしれない。しかし、遅れてきたことが幸いしたのか、映像社会学では撮影者/研究者のある種の介入を自認し、撮影される人々との関わり、相互交渉のなかに自分たちがいることを自覚し、リサーチや記録行為そのものの相互的な達成という特性を心得ている。つまり、研究者は身体なき理性として振る舞うのではなく、見る身体、聞く身体、感じる身体であろうとしているのである。自分のからだと共にその場にある(息づかいも匂いも伴って)、という当事者性を担うことになる。

②映像記録の計算不可能性が身体的な特性を帯びるということ。視覚が他の感覚に優越した理由のひとつは、一般化可能性だったと思われる。事物の描写として一般化されつつ言語によって視覚情報が伝達するからである。だが、観察や聞き取りというリサーチが映像的に実践され、映像として作品化されると、実は、一般化して伝達しようという意図があったとしても、逆に、予期せぬ、見ていないこと、見たくないことが、記録されることにもなる。科学的な言説の生産はつねに合理性や一貫性を夢想して行われるわけだが、そもそも、映像それ自体は、合理性や一貫性を裏切るものだろう。編集作業によって、十分にコントロールされた、合理的な像を作ろうとしても、どこかに計算不可能な「事実」を残すものである

映像作品として公開をすれば、それは他者によって鑑賞/読解されるものになる、そのとき、③身体的な作品受容は避けられないということ。たとえば、あるコミュニティに関する映像社会学的な作品は、コミュニティの人々や言動、外見的な特性を、意図しようがしまいが、写し込むことになる。テキストだけで伝達しようとする主張とは、ある意味関係なく、身体性の次元での刺激と誘惑、消費が起きてしまうのである。このことを否定的に捉えれば、映像社会学は客観的な根拠を欠く非合理な産物だと批判されるだろうが、もし、多様で豊穣な姿をより留めたまま、世界を(社会学的に)再現しようと思うなら、この身体的な受容を遠ざける必要はない。もちろん遠ざけようとしても、所詮、映像社会学には無理な話だろう。むしろ、映像作品の身体的な受容へと映像社会学は織り込まれていると考えたほうがいいだろう。

さて、映像社会学を紹介することで述べたかったのは、DID同様に、現代社会に生きる私たちは、視覚による生とは別の、身体的な感覚、とりわけ触れるという身体感覚によって生きる、そんな生をめざしつつあるのかもしれない、ということである。

たまたま名古屋にいる。あいちトリエンナーレ(都市の祝祭をテーマに821日から1031日まで名古屋市で開催された国際芸術祭)を見学した。なかに香港在住作家のツァン・キンワの《第四の封印》という作品があった。暗い部屋に見学者が座る、いつしかその白の床に文字が投射され、そのテロップは蛇のように動き回り、その数が増していくのである。面白かったのは見学者が自分の周りを徘徊する上から投射された視覚的な文字像に触ろうとしたり、追いかけたり、ペットのように慈しんだりする姿だ。ところがそれらの文字は「地獄」「堕落」「炎」「虚栄」「宿命」「疫病」、題目通りにヨハネ黙示録、人間に死をもたらす青白い馬に乗る第四の騎士の登場なのだ。動き回る視覚像を自分の周りで蠢く疫病とは「見ずに」楽しげに「触ろうとする」のだ。逃げても良さそうなのに、ひとはそうしない。